カスミサンショウウオと生息地の山奥の写真

徳島に生息するサンショウウオの歴史

サンショウウオの生態を調べていると,色々気になる事が多い。その一つが,四国の自然に棲む様になったのはいつ頃だろうか,何処から来たのだろうか,どのようにして生息地を見つけたのだろうか等々である。ルーツが知りたく,生息環境や生態,地学,地質時代等から推論してみた。

1) セトウチサンショウウオ3つの島で生息

徳島県の小さな島でセトウチサンショウウオが生息している事がわかった。徳島県の東端は北から南まで海に面し,海岸線は出入りが多く,美しい風景が続いている。陸から少し離れた所には小さな島が幾つもある。その中の3つの島でセトウチサンショウウオが生息している事がわかった。島の自然で生息しているという事は,海を泳いで渡る事は絶対に出来ないので,島となった時点で,既に祖先が島内で生息していた事を物語っている。3つの島は,1つは県北鳴門市の島田島,2つ目の島は県の中程,阿南市沖にある伊島,3つ目は県南の牟岐町沖の出羽島である。

この島々が誕生したのは,小さな海峡で隔てられた島田島でわかるが,四国が誕生した時であるに違いない。島に生息するセトウチサンショウウオは,四国誕生の前から,既に四国の自然に棲んでいた事を教えてくれている。

図1 鳴門市の東端にある島田島には,山あり谷あり民家ありの小さな漁村。島での生息確認は,大切な事を教えてくれている。

2) セトウチサンショウウオ中央構造線で出来た湿地に生息

徳島に生息しているセトウチサンショウウオの生息環境から,棲み始めた時代を推定してみた。現在,生息している場所は,四国山地でも讃岐山脈でも,小さな谷が平地に流れ出た山麓の湿地帯である。地質時代に,四国山地と讃岐山脈が隆起し,浸食が進み,谷が出来,草木が育ち,いろんな動物が棲む,現在の様な山脈になってから,棲み着いたと考えられる。県内での生息地は,3島の他では,四国山地山麓では阿南市,佐那河内村や吉野川市など県土の東部地域である。讃岐山脈山麓では西端は美馬市脇町までで,県西部地域には発見されていない。県西地域は四国山地も讃岐山脈も,山が深くなり標高も高く,谷川の規模が大きく,山麓には生息出来る環境がないからであろう。

幸いにも,郷土,阿波市市場町内には,数か所の生息地が確認されている。2箇所は堆積岩で出来た讃岐山脈の南に伸びる稜線の南端部が中央構造線で切られ,山裾が三角錐状になった尾根が東西に幾つも出来,その間を小さな谷が流れ湿地帯となっている所である。

生息している環境が出来た過程から,棲み始めた時代を考えると,先ず,讃岐山脈が隆起し,浸食が進み,山の形ができ,山頂から南麓に伸びる尾根の南端部を東西に動いた中央構造線が切り取り,山脈の南端に幾つもの三角崖が出来,その間に小さな谷の流れと湿地帯が出来た。現在,生息している所は,その湿地帯であり,セトウチサンショウウオが棲み始めたのは,中央構造線が活動してから後で草木も生えて,動物も棲む湿潤な山麓となってから棲みついたに違いない。

徳島の地にセトウチサンショウウオが棲む様になったのは,3島で生息がわかった事で,四国誕生よりも前である。四国誕生は約100万年前と言われており,それまでは,紀伊水道も出来ておらず本州とは陸続きであり,セトウチサンショウウオは東部地域に生息していたと考える。

その後,約100万年前までは,香川県へ流れていた吉野川の流路が,100万年前~50万年前の間に,讃岐山脈の隆起で南麓に沿って東方向へと流路が変わった。その頃,讃岐山脈南麓を中央構造線が西方向に動き,半田町の北辺りから香川県に流れていた吉野川の流路を池田町まで動かし池田町より東に流れる様になった。そして,山麓にサンショウウオの生息に適した環境も造った。吉野川が紀伊水道に流れるようになり,県土の東部地域に棲んでいたセトウチサンショウウオは吉野川の流路等をたどって県西部の地域へと移動,四国山地や讃岐山脈の麓に棲み着いたと考えられる。郷土市場町の生息地である,南麓の小さな谷が流れる湿地帯に棲み着いたのは100万年前~50万年前と推定される。

図2 讃岐山脈南端が中央構造線で切られて出来た三角崖。三角崖と三角崖の間に小さな谷の流れと湿地帯が出来,その水溜まりにセトウチサンショウウオが生息している。

図3 セトウチサンショウウオ。全長約110mm。

3) セトウチサンショウウオの歴史

セトウチサンショウウオは何処から,どの様にして棲み着いたのだろうか。かすかな手掛かりでの推論であるが,生息場所が県土の東部~中央部である事や東部海岸の3島で生息している事から,紀伊半島方向の本州から移動して来たのでないだろうかと考える。また,讃岐山脈の南麓での生息地は,脇町,阿波市,鳴門市共に,中央構造線に沿った場所である事から,中央構造線の活動によって出来た自然環境が,セトウチサンショウウオの生息に適している環境が多いためであろう。

どの様にして移動して来たかについては,深山性サンショウウオの様に水の流れを利用して棲息場所を見つけてきたのではないかと推測している。その理由として,昭和54年9月に民家の納屋を倒していた時,床下の湿り気のある土間でセトウチサンショウウオの成体を発見した事がある。納屋の横には約400m離れた讃岐山脈南麓にある貯水池からの水路が通っており,サンショウウオは田畑に水を入れた時に流れてきて,民家の屋敷に棲み着いたのに違いない。もう1つは,平成15年12月に,讃岐山脈南麓の中央構造線より約1500m北に入った河岸段丘上の民家の庭先で,サンショウウオが見つかった事がある。この場合も民家の裏には日開谷川へ流れている小さな谷が流れており,水の流れを頼りにして棲み着いたと考える。セトウチサンショウウオの生息場所探しも,水の流れを足掛かりにして移動探索しているのに違いない。

4)剣山山系に生息するサンショウウオの歴史

徳島の四国山地には深山渓流性の3種類のサンショウウオが生息している。自然豊かな深山に生息する「生きた化石」と言われる珍しい動物が郷土に棲んでいる事は嬉しい。

剣山に生息しているサンショウウオは,いつ頃から,どこから,どの様にして,棲み着いたのだろうか。3種類の中で生息範囲が広く,個体数がやや多いイシヅチサンショウウオを中心に,調査を基に考えてみた。

はじめに,県内での生息の現状と,生息地を広げてきたと考えられる行動や方法等について推論してみたい。イシヅチサンショウウオは,変成岩帯である四国山地の剣山山系から愛媛県石鎚山山系に及ぶ標高の高い山々の渓谷を中心に分布している。生息地の環境は雨が多く霧も多く,水温や気温は平地より6度~12度低い。落葉広葉樹原生林内を流れる渓谷には冷たい清水が年中流れており,林床は苔むす岩塊や倒木や落ち葉で山肌は湿り気が多い。神秘感のする深山である。

県内では,剣山(1955m)を中心に,東は上勝町の高丸山(1439m)から西は吉野川を西に渡った山城町の野鹿野池山(1294m),北は吉野川市山川町の高越山(1133m)から南は木頭地域の山々と広範囲に分布している。起伏の多い谷あり川ありの標高1000mを越す山々に,どの様にして棲み着いたのだろうか。サンショウウオはトリやサルとは違い,身体は小さく短い4本肢で地面を這う様にしか動けないのに,本当に不思議である。

サンショウウオには,いろいろ優れた特徴がある。夜行性で身体がいつも湿っている事,肺と鰓と皮膚で呼吸ができる水陸両用,朔上能力があり,垂直面でも登るし水中での動きに適応する事や,安全な場所に産卵し,一度の産卵で約30匹,セトウチサンショウウオは100匹の幼生を産む。寿命は30年以上と長い。水の流れを探し出す事や幼生の生息場所は渓谷の岸縁である事や洪水や増水時には岸際に寄る習性がある等,種族を護る本能・習性を多く持っている。

生息地帯は,渡る事が難しい様な吉野川や祖谷川級の規模の大きい川で分断されたり,大きな滝や岸壁のある渓谷の上流にも生息している。生息環境地帯を探し出すと言っても,周囲を広く見渡す事も出来ないし,持って生まれた本能や習性を頼りに,ただ四本の肢を使って探すしか他に方法はないと思うのだが。生息している渓谷は長い期間を掛け,世代交代を重ねて生き続けて来たに違いない。その過程で大きな役目をしてきたと思うのは,渓谷の水の流れである。広範囲に分布している生息地は,全て山肌と渓谷の水の流れで網目状につながっている。幼生も成体も水中で活動し生活の中心場所でもあり流速や水温を手掛かりに,水の流れを活かして生息環境を広げたと考えられる。

調査をしていると,サンショウウオのいる渓谷には,不思議な事に,イモリ,タゴカエル,ヤマアカガエル,ニホンヒキガエル等の両性類の姿を見かける事がよくある。両生類には,生息環境の共通点がある事や特別な本能・天性・習性があると考えられる。

次に,徳島のサンショウウオは何処から来たのだろうかについて考えてみた。

生物は進化や交配,突然変異で新種が生まれる。徳島のサンショウウオは,何処かから移動して来たとしか考えられない。四国が本州から離れたのは,地質時代の最新世(第四紀・洪積世),約100万年前の断層運動によって本州から離れたと言われている。四国に生息しているサンショウウオは,この時点で,既に四国の地に棲み着いていた事は確かであり,何100万年前から生息環境に合った所で生息して来たと予想できる。

イシヅチサンショウウオは,最近までオオダイガハラサンショウウオと呼んでいた。紀伊半島の大台ケ原高原で初めて確認されたサンショウウオと姿形が同じである事からである。日本列島の地図を見ると和歌山県の紀伊山地と四国山地は同じ線にあり,共に同じ時代,第三紀末から第四紀の初め頃(120万年~100万年前)の造山運動によって出来た山地である。今から約100万年前は,まだ,紀伊水道は出来ておらず,紀伊半島と四国は陸続きであり四国山地は大台ヶ原高原など本州と一体の山地であったので,オオダイガハラサンショウウオは四国山地となる地域の渓谷等にも生息地を広げていたのだと推測される。剣山周辺に生息しているシコクハコネサンショウウオやツルギサンショウウオもイシヅチサンショウウオと同じ様に,本州と四国山地が陸続きであった地質時代に,長い長い年月を掛け山地伝い渓谷伝いに広がって来たのに違いない。

図4 ツルギサンショウウオ。全長約100mm。虎模様。

図5 イシヅチサンショウウオ。全長は雄約190mm。雌は180mm。

図6 シコクハコネサンショウウオ。雌,後肢が細い。

図7 深山渓流性サンショウウオ3種類が生息する剣山周辺の山々(標高約1700m)初夏になるとサンショウウオの産卵成体が山々の渓谷に集まってくる。

図8 サンショウウオが生息する渓谷中流域。シコクハコネサンショウウオ幼生の姿を見る範囲は,標高では約1550m~1200m。

5) 四国山地,吉野川,讃岐山脈,中央構造線と四国誕生 

徳島に生息する4種類のサンショウウオが,徳島の自然に棲む様になった時代を推測するため,地学教育講座,地学関係書,インターネット等で「日本列島のおいたち」について,現在の自然になるまでを調べてみた。

日本列島は新生代第三紀始新世(5,600万年~3,400万年前)に原型が出来,新生代第三紀中新世(2,300万年~530万年前)に日本海が出来,ユーラシア大陸と分離。新生代第四紀洪積世(更新世)の初め頃に現在の日本列島の原型が出来た。その頃,四国は本州と一体であった。洪積世は200万年間続き,その間に日本列島は断層運動によってグングン隆起しはじめ,浸食も進み,険しい山と深い谷が出来た。また,数回の氷河期に見舞われ,海面が100m~140m低下した時期もあり,大陸と陸続きになり,色々な動物が日本列島に移動して来た。

紀伊山地と共に,四国で最初に隆起したのは四国山地で,約300万年前頃から隆起を始め,約200万年前には1500mに隆起,V字谷が出来た。四国山地は120万年前~100万年前に,山脈の形が出来た。

最初に四国の自然に棲み着いたサンショウウオは,一足早く出来た四国山地に生息する深山渓流性のサンショウウオであり,その後に,240万年前に隆起を始めた讃岐山脈が,約100万年前~50万年前に現在の山脈となり,セトウチサンショウウオが四国山地や讃岐山脈の山麓に棲み着いたと考える。サンショウウオが生息し始めた頃は,両山脈は現在の様に樹木が繁り緑一面で,渓谷には清水が流れ,いろんな動物が生息する様になってからであるに違いない。その頃,四国はまだ本州と陸続きでつながっていた。

次に吉野川の形成と流路について調べてみた。四国山地の隆起に伴い出来た渓谷が集まり愛媛県の瓶ヶ森山(1897m)を源流とする吉野川が誕生した。その時から吉野川の流路は上流では四国山地を東に縦走し,高知県の大豊町辺りから四国山地を横断し北へと流れていた。そこからの流路が現在の吉野川とは大きく違っていた。当時の吉野川は,徳島県の西部,池田町より約25km東の地点から,北の讃岐平野,香川県へと流れていた。約250万年前~100万年前の頃である。その後,香川県へ流れていた吉野川は約240万年前頃から隆起し始めた讃岐山脈が100万年前~50万年前頃までに十分隆起し,香川県に流れていた吉野川は讃岐山脈に遮られ,讃岐山脈の南麓に沿って東方向へ流路を変え,徳島市方向に流れる様に変わった。

讃岐山脈の南麓を徐々に動いていた中央構造線が西に25km動き,吉野川の流路は,大歩危小歩危を経て北の池田町まで流れ,そこから東へ流れる現在の流れに近い流路となった。その時に徐々に約25km西に動いた中央構造線で郷土市場町の讃岐山脈南麓も切り取られ,幾つもの三角崖ができ,三角崖の間に小さな谷と湿地帯ができた。最近まで,その谷と湿地帯にセトウチサンショウウオが生息していた。

讃岐山脈南麓を中央構造線が動きだしてから,四国が本州から離れ現在の四国が誕生した。洪積世の頃である。(何回にもわたって起こった断層運動の結果,現在見られる中央構造線となる)。

図9 吉野川市の四国山地から見た讃岐山脈。約240万年頃から隆起を始め100万年前~50万年前頃までに十分隆起する。平坦部の中央は吉野川の流れである。吉野川市川島町から見た讃岐山脈。

図10 北から見た四国山地。幾重にも重なっている。一番奥は高城山(標高1628m)。手前の住宅が点在する平坦部の中央の薄黒いのは吉野川。

図11 北には香川県境に沿って東西に讃岐山脈が,その南麓を中央構造線が走り,南には四国山地が幅広く東西に連なる。両山脈の間を吉野川が東へ流れている。四国山地の茶色の線で囲んだ地域が深山性の生息中心地域である。

おわりに

徳島に生息するサンショウウオは,祖先が何100万年前,四国が誕生するより前の地質時代から剣山山系や四国山地や讃岐山脈の麓で棲み続けている動物である。徳島のサンショウウオの歴史や習性の素晴らしさを考えて頂ければ嬉しいです。

令和3年 8月 記